演劇さえやれていればいい、そしてやれている。僕はそこに満足し ていた。本当に充分だった。それ故なのか表現に対して探求も疑い もなかった。描きたいことに対するアプローチは一つしか持ってい ない。当然どの公演も同じになる。コミカルであり、いきすぎた表 現はなく、シニカルである。毎度そんな公演である。 今なら、そんなこと誰が決めたんだと否定できる、アプローチは無 限にある、と。しかし当時の僕は表現や表現の可能性なんて考えて もいない、主流から外れ過ぎると誰にも観て貰えなくなる、固定観 念というか脅迫観念で自らの表現を安易に狭め、安易に容認してい た。 実はそういう芝居は現在でも多く見かける。つまり演劇というもの が日常を忘れさせてくれる都合のいい女でいてくれればそれでいい のである。 自分だけの表現に挑めるようになる理屈は一つしかない。表現が好 きにならないとどうしようもない。演劇に対してもっと興味が生ま れないとどうにもならない。僕自身ずっと好きだと思っていた演劇 に対して実はどこまで興味があったかは疑問である。お前って本当 はこんな女だったの!?と感嘆することが一番いい。人と比べる必 要がない次元にあるのが表現だ。自分と表現、自分と演劇が勝手に 深く、いやらしい関係になっていけばいいのだ。誰のものでもない。 第三回公演をやりながら僕は違和感を持ち始めていた。きっと演劇
第七話「人生を変える言葉」蓬莱竜太